北脇永治さん 二十世紀梨にかけた情熱
「鳥取県といえば二十世紀梨、二十世紀梨といえば鳥取県」といわれるだけあって、鳥取県の二十世紀梨の年間収穫量は全国の約半分を占めています。
また、二十世紀梨は日本を代表する輸出農産物であり、さわやかな甘さとみずみずしさは、国際的にも高い評価を受けています。
鳥取県に初めて二十世紀梨の苗木を持ち込んだのは、松保村(まつほそん)(現在の鳥取市桂見(とっとりしかつらみ))で農業を営んでいた北脇永治(きたわきえいじ)という人物です。
永治は明治三十七年(一九〇四年)の春、千葉県松戸市(まつどし)の松戸覚之助(まつどたかくのすけ)が経営する「錦果園(きんかえん)」から、一〇本の苗木を購入し、それを自分の果樹園に植えました。これが鳥取名産「二十世紀梨」の歴史の始まりです。
永治は、明治十一年(一八七八年)に生まれ、農業をしていた父が亡くなったのを機に二十一歳で果樹栽培を始めました。
永治が一〇本の苗木を入手したのは二十六歳のときです。その後、永治は二十世紀梨の育成に没頭(ぼっとう)していきます。そして、稲作の副業には二十世紀梨の栽培が向いていることを人々に説き始めます。
しかし、厳しい生活に追われていた農家の人々は、なかなか永治の声に耳を傾けてはくれませんでした。永治はそれでもめげすに、機会をみては二十世紀梨栽培が農家にとって有利であることを説き、将来のことを考え、自らが経営する果樹園を拡張(かくちょう)していきました。
そして、県の試験場(しけんじょう)が、苗木を育て農家に配り始めたこともあって、二十世紀梨の栽培は次第に鳥取県全域に広まっていったのです。
ところが、今度は「黒斑病(こくはんびょう)」という大敵が現れました。黒斑病は、二十世紀梨を栽培する上でもっともこわい病害で、果実が腐り落ちてしまいます。この黒斑病の発生により他県では大正二年(一九一三年)ころから栽培を中止するほどとなり、鳥取県も毎年のように悩まされるようになりました。
特に大正十二年(一九二三年)から三年連続で大暴風(だいぼうふう)や干ばつなどの大災害に加えて、黒斑病が猛威(もうい)を振るい、とうとう収穫できない状態になってしまいました。
せっかく普及した二十世紀梨栽培ですが、栽培をやめてしまう果樹園も出てきて、鳥取県の二十世紀梨は壊滅(かいめつ)の危機に陥(おちい)ってしまったのです。
この危機に、永治は持ち前の行動力で県や国を説得し、動かします。まず、国から植物病理学者の卜蔵梅之丞(ぼくらうめのじょう)を招いて、黒斑病を防ぐ指導を受けます。続いて各地に黒斑病を防ぐ組合を組織するとともに、組合をまとめて鳥取県二十世紀梨黒斑病防除組合連合会をつくり、県内一斉の薬剤散布(やくざいさんぷ)を実施するにいたりました。この一斉散布は翌年も行われ、これが目を見張るような効果を上げました。
一方、大正十四年(一九二五年)には、鳥取県梨共同販売所が設立され、永治は初代所長となります。
さっそく永治は、二十世紀梨の販売ルートを拡大したり商品の価値を高めるために、さまざまな工夫を取り入れます。全国五一都市に指定の店を設け、専売(せんばい)方法をとって販売ルートの拡大を図った他、二十世紀梨専用の肥料(ひりょう)をつくることにも力を注ぎ、品質の向上にも取り組みました。
こうして永治は二十世紀梨育ての親とまでいわれるようになりました。
永治は「仕事に自信と責任を持て」と教えたといいます。永治のこの自信と責任が、鳥取県における二十世紀梨産業の発展に結び付いているのでしょう。昭和九年(一九三四年)にはラジオに出演し、こんな言葉を残しています。
「私は果樹園創設以来みずから鋏(はさみ)と鍬(くわ)を手にしてここに三十五年の年月を重ねました。その間を回顧(かいこ)しますと幾多の曲折(きょくせつ)を歩みつらい苦しさをなめてきました。しかしこれらの困難は一つとして貴い体験でないものはありません。二十世紀梨の今日があるのも私の今日の喜びもまったくそのおかげです。ことに二十世紀梨の病害を一斉防除により防ぎ栽培の安定を得、全国的にその範(はん)を示し、栽培をやめた産地が再び栽培を始めていかれるようになったことはこの上ない喜びです。私は果樹栽培を天職(てんしょく)と定め一身を賭(と)しています。今後ますます二十世紀梨の栽培および発展に努力して微力(びりょく)を邦家(ほうか)(国家)に捧(ささ)げたいという覚悟でいます」(要旨/一部現代語訳)
永治が生涯をかけた二十世紀梨は、幸水(こうすい)や豊水(ほうすい)など多くの梨の子孫を残しながら、今も私たちの食卓を彩っています。
鳥取県に導入
鳥取県には明治37年、鳥取市桂見で果樹園を経営していた北脇永治さんがその苗木を10本購入したのがはじまりですが、その後、急斜面 でも栽培できるということで昭和8年頃から急速に栽培面積がふえてきました。
今では全国一の産地となり鳥取県を代表する果 物となりました。
千葉県の原木も昭和23年に枯れてしまい、全国ではじめて植えられた直系の子は鳥取県の桂見の「とっとり出合いの森」にあるこの3本だけとなりました。
現在JA全農とっとりの管理のもとで大切に育てられています。
約1世紀たった今でも、毎年もみずみずしい実をつけています。(ただし、残念ながら非売品です。)
二十世紀梨は、国内のみならず海外にも輸出されています。
鳥取県では二十世紀梨が
78%を占め、まさに二十世紀梨の産地です。